ペリーが横須賀の浦賀に来航したのはなぜ?幕府の対応は?

ペリー提督 歴史
ペリー提督

170年前、ペリーが黒船といわれた艦船4隻を率いて横須賀の浦賀(現在は久里浜)に来航した、ということで、ペリー来航をきっかけに、日本の歴史が大きく転換した大事件でした。

ペリー来航の場所・港が横須賀の浦賀であった理由と、ペリーの来航目的は何か?、日本の江戸幕府はどう対応して、結果、どのようなことが起こり結果になったか、をお話していきますね・・

ペリーが横須賀の浦賀に来航!

嘉永6年(1853)にアメリカ東インド艦隊の司令長官ペリーが率いる黒船艦隊4隻が大西洋・インド洋航路で浦賀沖へ来航し、浦賀(現在の久里浜)に上陸したのです。
ペリーはアメリカ大統領の親書を携え、日本に開国を迫り、大砲(空砲)で脅しをかけながら、翌年に日米和親条約を締結させました。
日本は長い鎖国から、一気に開国へと向かいます。

幕末期、日本が鎖国政策をとっている間、欧米諸国は近代国家への歩みを進めていきました。

イギリスにおける18世紀から19世紀前半にかけての産業革命が、他のヨーロッパ諸国やアメリカにも及び、列強各国は植民地の獲得競争に乗り出し、その矛先はアジアにも向けられました。

18世紀末から19世紀はじめにかけて、ロシア船やイギリス船が、日本近海に来航し、鎖国の扉を叩こうとしましたが、幕府は頑なに鎖国政策を堅持します。しかし、清国がアヘン戦争で

イギリスに敗れたことを聞くと、異国船打払を緩和し、薪水給与令(しんすいきゅうよれい)を出し、漂着した外国船には薪水・食料を与えることとしました。

しかしながら、鎖国を守る姿勢は変わらず、弘化元年(1844)、オランダ国王が親書をもって開国を奨めますが、幕府はこれを拒絶して、鎖国体制を守り抜こうとしました。

弘化3年(1846)、アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが浦賀に来航し開国を幕府に交渉した際にも幕府はこれを拒絶し、ビッドルは目的を果たさないで帰国しました。

ペリー来航が浦賀だったのはなぜ ?

ペリーが来航で浦賀を停泊する港として浦賀を選んだ理由は、 当時江戸時代の日本は鎖国であり、外国船が江戸湾(東京湾)の奥に入ることを禁じていたので、外国船は江戸湾に侵入できないため、その手前の浦賀に停泊することになったのです。

また、当時の日本は江戸幕府で鎖国政策を行っており、外国船の来航は長崎の出島に限られていたが、ペリーが来航の停泊地を長崎ではなく浦賀を選んだのは、江戸幕府に開国を迫るには、江戸に近い浦賀の方が幕府への圧力をかけるには効果的と考えたようです。

ペリーが日本を訪れた目的は、アメリカ大統領からの親書を江戸の将軍に渡すことにありました。大統領の親書には、捕鯨船が難破した際に助けて欲しいというような内容が記載されています。

アメリカでは中国貿易や捕鯨のために太平洋を航行する船が増えており、日本の港で食料や燃料を補給したいとの要望が増加していたとのこと。アメリカはこういった背景を踏まえて、日本に開港を求めるため浦賀を訪れたのです。

当時、ロシアや欧州各国も日本との繋がりをもとうとしていましたが、のらりくらりとした幕府の外交にかわされ、限定的な交流に止まっていました。ペリーはそういった外交スタイルでは日本の意思決定を促せないと思い、強硬的な態度で迫ってきました。

ペリー来航に幕府の対応は?

ペリーが突然、黒船と呼んだ蒸気船4隻が浦賀に来航したので、その黒船を見た当時の日本人は、驚きと恐怖で大騒ぎになったことでしょうネ。

当時の浦賀の異国船に対する日本の対応窓口は、浦賀奉行所が応対任務を負っていました。
浦賀奉行所はペリーの来航目的も不明のまま、フランス語で「ただちに退去せよ」との横断幕を掲げて退去を要求したのです。

鎖国時代ですから浦賀奉行所としては当然の対応だったのですが、ペリー側は「退去せよ」の横断幕には何の反応も無かったのです。

そこで奉行所の役人がペリーが乘っているサスケハナ号という旗艦に乗り込み、そこで来航の目的を知ったのです。

江戸幕府側は「長崎に行くように」と告げますが、ペリー側は江戸の近くで親書を渡したいとの主張を曲げず、結局浦賀の地で親書を受け取ることになったのです。

黒船来航によって、欧米諸国との差を思い知った幕府は、欧米の事情調査や語学習得等のために「洋学所」や、洋式航海術を学ぶ「長崎海軍伝習所」を設立して、西欧文化の吸収に励みました。幕府だけでなく、長州藩や薩摩藩、佐賀藩なども洋式の軍事技術の導入に積極的でした。

国民は突然の黒船来航に、驚き恐怖を覚えていました。ところがしばらくすると、好奇心のほうが強くなり、黒船を見物する庶民たちが続出します。「黒船来航風俗絵巻」という黒船来航の際の人々の様子を描いた絵には、「異船見物無用」との立て札が描かれていることからも、多くの人が黒船を見物しに殺到したと推測できます。

黒船来航によって、諸外国との貿易がスタートすると、庶民の生活にも影響が出始めました。人々が大きな不満を抱いたのが、物価の急上昇です。生糸や茶などの輸出が急増したため、国内での供給が不足してしまい、物価が上がってしまったのです。

日米和親条約とは?
ペリーは江戸幕府に開国について、日本の回答を引き出そうと威圧的な態度で交渉に臨みます。一方で日本側の対応窓口の老中阿部正弘は、「翌年に回答する」として、一旦ペリーを退去させました。

そして約束の期日である1854年1月、今度は軍艦9隻を率いてペリーが江戸湾に入港します。そして3月3日に日米和親条約が締結されたのです。

日米和親条約の主な内容はこちらです。

・アメリカ船に水・食料・燃料などを供給すること
・下田と函館を開港すること
・下田にアメリカ領事を駐在させること
・日本はアメリカを最恵国待遇(さいけいこくたいぐう)すること

アメリカと日米和親条約を結んだことで、イギリス、オランダ、ロシアとも同様の条約を結ぶことになり、日本の鎖国体制は終わりを告げます。

日米修好通商条約は、日米和親条約の2年後に締結されたアメリカとの貿易に関する条約です。アメリカ側は、中国がイギリスとフランスの連合国に敗れて不平等条約を結んだことを引き合いに出して、条約調印を迫ります。

とはいえ、国内は攘夷(じょうい)の風潮が強く、条約を締結するためには天皇の勅許(ちょっきょ)が必要であると意見する大名が少なくありません。

そこで当時の老中堀田正睦が天皇に勅許を出すように求めました。ところが、その間に大老の井伊直弼(いいなおすけ)が、日米修好通商条約に調印したのです。

日米修好通商条約の主な内容を確認しておきましょう。

日米修好通商条約は、領事裁判権をアメリカに認めていた点、日本に関税自主権がない点など、日本に不利な条項があり、不平等条約と呼ばれています。

まとめ

ペリーが横須賀の浦賀に来航して、アメリカの親書を渡し、開国を迫ったことで、翌年、250年続いた江戸幕府の鎖国政策が終了し、江戸幕府も大政奉還して、明治維新で日本の体制が大きく変化を迎える、という、歴史上も大きなきっかけにもなった事件でもあったのですね・・

現在、浦賀(現在の久里浜)には、ペリー公園があり、ペリー記念碑、ペリー記念館がありますので、ぜひ見てみてくださいね。

ペリー記念館 1987年(昭和62年)・・横須賀市の市制80周年を記念して建てられました。

開館時間:9:00~16:30
休館日:月曜日(祝日のときは翌日)・年末年始
入館料:無料

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